子供たち。

ある人のブログを読んでいたら、子供の性格や行動のことで悩んだら、自分の子供のころを思い出しなさいという事が書いてあった。

子供が直面している状況で、自分が子供の頃はどうしていたか。
そう考えれば、我が子の「短所」はどうしようもなく自分に似ているのだということに気づき、ま、言ってみれば「あきらめがつく」という、そういう事だった。

それで私は考えてみたのだけれど、まだたった12年しか子育てというものを経験していないけれど、私は子供の性格で悩んだことがほとんどない、と思う。
その時々であったのかもしれないけど、今覚えていないという事はそれほど重大な悩みでもなかったんじゃないかと思っている。
どちらかというと、あるがままをそのまま受け入れるという、私の素直ぉぉな性格(笑)だと思うのだけれど、大好きな友達にずるずるとひきずられるようにして遊ぶのも、本人がいいならそれでよし。気の合う友達がいなくて、一人で読書や折り紙をするのも、本人が楽しんでいるのなら(これがポイント。)それでよし。(←あろん。)
リーダー的な存在として友達を引っ張っていくのもそれでよしだし、つまはじきにされないための自己防衛本能で、何となく強そうな子について回るのも、それは本人なりの子供社会を生き抜いて行くための知恵だと思う。

で、自分はどんな子供だったかなぁ、と改めて思い起こしてみると、周りのペースに合わせようとしゃかりきになっていたけど、結局最後まで合う事はなかった。というのがぴったりのように思える。笑

面白い事を言って周りを笑わせたいとは思っているけれど、自分では相当の無理をしていたというか。笑
高校では、2年生から普通クラスと進学クラスに分かれるのだけれど、私は何をトチ狂ったのか進学の方を選択した。
進学する気などこれっぽっちもなかったというのに。
何を考えていたのだろうか。私は。

当然、クラスのほとんどは休み時間も惜しんで参考書なんかを広げているし、今日は珍しく授業中に居眠りしているクラスメイトがいて、私が仲間を得たようでちょっと嬉しい気持ちでいると、先生が言う。

「彼女は昨日、大事な全国模擬テストがあって、連日徹夜で勉強していたから相当疲れているのだと思う。そのまま寝かせておきなさい。」なんて、私には理解不能な事を言うのだ。

確かに、私が授業中に寝ていても放っておかれる事はあった。
でもそれはただ、言葉通り「放っておきなさい。」という意味で放っておかれたのだ。笑
そんなふうだったからますます、周りに心を割ってつきあえる友達はいなかった。
常に友達と一緒にいないと取り残されるんじゃないか、といつも焦っていたような、でもだからといって友達と一緒にいても、どうやって接していいんだかイマイチ自信がなかったような、そんな子供だったんじゃないかなぁと思う。
自分なりに分析してみると。

そして学校を卒業して社会に出てからは、常に誰かと徒党を組まなくても、合わせなくてもいいんだな、と気づき、本来の自分のままでいても、周りには色んな人がいるんだし、という事に気づいた。

私はそういう子供だったと思うのだけれど、息子たちを見ると、私の子供時代とは全く違うなぁ。
冒頭の、「我が子は自分の幼い頃と同じだという事に気づくはず。」というのは、私には当てはまらない気がする。

ジェイもアロンも、私よりもっと子供時代を数倍楽しんでいるように見える。
自分の周りには色んな人がいて無理に合わせる事もないんだという、私が社会に出てからやっと気づいた事を、小学生の彼らはもうすでにわかっているように見える。
そしてそれは同時に、友達や周りの大人の、自分とは違う考え方や行動を認めたり尊重する心の準備ができているという事でもあると思う。

それは日々、私が息子と彼らの友人たちを見ていて思う事で、私にはそれがうらやましくもあり、私を感心させる。
「何だか私よりオトナだなぁ。」なんて、子供たちに対して畏敬の念を持つ事さえある。

子供たちの、「許容範囲の広さ」とでもいうようなものはどこからくるのかなぁ。
彼らが育っている環境-周りには色んな人種や肌の色の違う人々がいて、話す言葉もそれぞれ、共通語である英語もアクセントが千差万別(笑)、友達の家に遊びに行けば、お国柄に寄って出てくる食事も生活様式も様々。
「人とは違って当たり前」という大前提があるサイパンの環境が、彼らをそんなふうに育てているんじゃないかと、そう思う。

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